羽生善治『決断力』から学んだ教育における重要な2つの視点

最近、将棋がおもしろいなと思って色々勉強しております、櫻井です。

私達世代においては将棋界のトップといえば羽生善治王位・王座・棋聖(敬称は現時点のもの)ですから、羽生さんの将棋指南本や考え方を書いた本などをよく読んでいます。

今回、少し古いですが2005年に発売されたベストセラー「決断力」を読みまして、その中に筆者の教育観と非常にマッチするところがありましたのでご紹介したいと思います。

子供の成長には段階的な目標設定が必要である

二年生の夏休みに、地域の小学生の将棋大会の広告が新聞に掲載された。それに参加したのが、本格的に始めたきっかけである。当然、予選ですぐに負けてしまったが、それから土曜日の午後に道場に通い始めるようになった。(中略)

その道場では普通八級からスタートするのだが、その時に席主がつけてくれたのが、十五級である。私が幼かったこともあるだろうが、実力よりも低いところからスタートして、昇給していく楽しみを与えたほうがいいという席主の配慮であった。

将棋にかぎらず習い事は、自分が少しずつでも進歩しているのがわかると継続できるが、足踏みし上達しないと嫌になってしまう。「上達する」という喜びが、”次の目標”に向かう頑張りになるのではなかろうか。私は十五級から、道場に通うごとにクラスが上がっていった。

今考えると、目標への達成感が、私を将棋の世界へ没頭させるきっかけの一つになったと思う。
羽生善治(2005)『決断力』p.174-175

「進歩した」という実感が得られることが大切

子どもたちの目の前に設定される目標は、大人や周りの都合であることが多いです。

例えば平均点。テストで平均点を取らせたいと思っている親御さんは多いと思いますが、平均点というのは他の子どもが何点取るのかに大きく影響され、自分では操作することはできません。テストで90点取れたとしても、他の子どもが全員100点を取れば、平均点は99点とかになってしまいます(筆者は実際にこれを経験しました)。

つまり、「自分がどれだけ進歩したのか」を測るには非常に難しい指標であることが分かります。自分の進歩を測りたければ、他者の状況をいったん取り除き、「自分は何ができるようになったのか」ということを基準にすべきです。

羽生名人が通っていた道場は、そういう意味で非常に良い取組みをされていたと思います。

どんなに小さなステップであっても、「進歩した」という実感が得られることはとても大切なことです。「やるたびに級が上がる」というのは、子どもにとって非常にやりがいのあることであり、それが楽しみになって次もまたやりたいと思うことができます。

一方で、相対的な評価基準や、他人が押しつけた目標で子どもを評価することは、全くの逆であることが分かります。

親が80点を取りなさいと子どもに伝え、前回60点から今回65点に上がったようなケースでも、満足しない親御さんがいらっしゃいます。確かに80点には足りていないのですが、5点アップしています。これは、その子の頑張りではないですか?

また、80点に達していないからということで、全くほめないこともあるかと思います。つまり努力して5点アップさせるということは、親からの評価という意味では全くの無意味である、ということを親が子に示していることになります。

そもそも前回と今回で違う問題を解いているわけですから、この5点の意味合いも様々になります。なんとも言えないところです。

こういったことは、つまり目標設定が一方的で、「最終的」すぎるのです。もちろん最終的には80点に達してほしいと親御さんが考えているのは分かりますが、それより前にいくつもたくさんの目標を設定してあげるべきなのです。「できた!」「達成した!」という感覚の積み重ねでしか、自信は生まれません。

自分で苦労して勝ち取ったものを大切にする

将棋界では、ふつう師匠が手とり足とりして弟子に教えることはない。翌年に正式に入門してからも、先生には「こうしなさい、ああしなさい」といわれたことはないし、怒られた記憶もまったくない。

先生は、弟子の将棋や生活態度を見ていると「この場面はどうかな」「将棋にもっと真剣に取り組まなくては…」などと思うことはよくあるそうだ。だが、それを本人に直接言っても意味が無いと考えておられる。先生から見て「こうしたほうがいい」というポイントがあっても、本人が自分で気づかないと上達しないというのだ。師匠の奥さんは「そうはいっても、ずっと気づかない人もいるのだから、口に出して教えなきゃわからないわ」とおっしゃるそうだが、自分で苦労して自分なりの方法を見つけろというのが、先生の考え方のようである。

羽生善治(2005)『決断力』p.176-177

指導者をする立場の人にとっては、口を出すほうが楽だと筆者は思います。「言った」という事実をつくることで自分の責任を果たしたと感じ、不安が和らぐからです。

ですから、「口を出さない」という教育ができる大人は、そう多くありません。

親や指導者が口や手を出してばっかりだと、子どもは学習し「どうせ今回も親がやる/教えてくれるだろう」と受け身になってしまいます。結果が予測されるため、自ら考えたり行動したりする機会が減ります。そうすると、パブロフの犬ではありませんが条件反射のようなもので、受け身の姿勢が無意識に身についてしまいます。

最近の子どもは、教えてもらわないとうまくならない傾向があるとよく聞く。たとえば、子どもに問題を出すと「まだ習っていない」からと、自分の頭で考えようとしない。

将棋の場合は特にそうだが、どの世界でも、教える行為に対して、教えられる側の依存度が高くなってしまうと問題である。将棋は、自分で考え、自分で指し手を決めていくものだ。誰かに教わってそれをそのまま真似たり、参考にしてやっていくことが習慣化してしまうと、局面を考える力は育たなくなってしまう。
羽生善治(2005)『決断力』p.176-177

そうではなく、自分で考え、やってみて、結果が良くても悪くても反省し、次につなげるということを習慣化してもらったほうが良いです。人から与えられたものよりも、自分で苦労して勝ち取ったもののほうが、人は大切にします。

良い塩梅を探る

そのために大人は何をすればいいでしょうか?

何もしないのです。

何か命にかかわる危険や、他人に迷惑をかけてしまうような場合を除いて、口や手を極力出さず、ただ見守るべきです。子どもから質問があれば答えてあげればいいでしょう。ただし、「何を知るべきか」ということも、子どもが自分で考えるべきです。

もちろん学習の基礎中の基礎は真似ることですから、最初はそこからスタートします。しかし、段々と手を離していくべきです。その塩梅がいい感じな人が、教育に優れていると筆者は感じます。

これまで教えることに慣れている大人にとっては何もしないというのは逆に苦痛でしょう。そこは大人の方も成長が必要です。

知識を与えるでなく、解法を教えるでなく、学習に対する態度を養って欲しいと筆者は考えます。
達成感のある適度な目標を階段のように設計し、あとは子供が一人でに登り始めるのを口出しせずに見守る、それが教育者としての優れた仕事なのだろうと思います。

  • 桜井 啓太
  • 桜井 啓太
  • 2016年11月1日

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