自信を持つとはどういう意味か?
こんにちは、片岡です。塾の生徒と接していると、どうしたら自信を持ってもらえるだろうか、そもそも自信を持つとはどういう意味かと考えることがしばしばあります。
私が自信について考えるとき、大学生のときに読んだある哲学書が浮かんできます。ジャン=リュック・ナンシーという人が書いた(実際には講演のテキスト化なのですが)その本には、「自分らしくあるとはどういうことか?」「自信を持っているとはどういうことか?」という問いが詰め込まれていました。
今回はナンシーの議論を紹介しつつ「自信」について書いてみたいと思います。
自信とは「情報に基づかない信」である
議論を全て追うととても長くなってしまうので、なるべく簡単に紹介したいと思います。ナンシーは「信じる」ということを二つのタイプに分けます。
一つは「情報に基づいた信」、もう一つは「情報に基づかない信」です。そして、ナンシーは「自信」に関係があるのは後者の「情報に基づかない信」だというのです。
これには非常に興味を引かれました。
通常、私たちが使っている「自信」という言葉は「情報に基づいた信」を意味しているのではないかと思います。例えば、「テストでいい点をとって自信がついた」という時には、「私は過去にこれだけのことを達成した」という情報が、自信の根拠になっているわけです。
むろん、こうした信が無意味だったり無価値だったりするわけではありません。しかし、そうではない信、根拠も理由もなく「ただそうだから」としか言えないような信が「自信」という言葉の中に生きていると知ったとき、私はとても励まされたような気がしたのです。
自信のない生徒——例えば事情があってしばらく勉強から離れていた高卒生のような——の「勉強したい」とか「受験してみたい」という気持ちそのものを、「何を」も「どうして」も「どうやって」もいったん脇において、力強く肯定してくれているように思えました。
条件付きではない自分に信を持つこと
学校や塾などではよく「成功体験が自信につながる」といわれます。テストで良い得点をとったり、あるいは何かを達成したりといった経験が、自信を育てるということです。これ自体は正しいと思います。
しかし、こういう言葉を聞くときに「自信」という言葉の意味が限定されてしまっているのではないか、とも思います。「Aだから自信が持てる」ということは、「Aでなければ自信を持てない」ということと裏表だからです。
私は生徒に自信を持って欲しいと思いますが、それは「〜〜な自分」(例えばテストで100点を取った自分、友達が何人もいる自分…)といった条件付きの自分ではなく、「自分」そのものに自信をもっていて欲しい、何もない、ただの自分に「信」を持って欲しいと思うということです。
情報に基づく信が、情報に基づかない信を支えているのか?
先日、同僚の講師とこの話をしていたところ「でも、情報に基づく信が、情報に基づかない信を支えている部分もあるんじゃないですか?」ということを言われました。
そう言われて初めて考えたのですが、確かにそうかもしれないと思いました。
人は生まれてからずっと、とりわけ小学校に入学して以降は、好むと好まざるにかかわらず比較可能な情報(テストの点数や所有しているものの違いなど)を浴び続け、常に他人と比較したり、されたりしています。比較することで自分の性質を理解し、それを自信の源にする場合もあるかもしれません。
一方で、比較によって劣等感を持つこともあるでしょう。そんなとき、自分が他者に対して優位になって自信を確保しようとするばかりでなく(それが必要な時もありますが)、一旦そうした比較の現場から身を引いて、劣等感を生んでいるものを遠ざけてみるのも一つの手です
素のままの自分を感じ、それをそのまま信じて、言葉にならないわくわくやドキドキを追いかけて行ってもらえたらいいなと、私は思っています。
私たちは、横浜にある小さな個別指導の学習塾です。
受験をはじめとした勉強において、固定的なカリキュラムや決まった勉強方法に生徒を適応させることに意識が向きがちです。
私たちはそれらを大切にすると同時に「生徒」を中心とした学習方法を提案し実践することが、生徒が勉強を楽しむことに繋がり、学力の向上につながると考えています。
「自分に合ったやり方で勉強したい」「どうせやるなら勉強を好きになってもらいたい」という方は是非ティーシャルをご検討ください。