こんにちは、片岡です。

国語の指導をしているので、時々文章の書き方について相談を受けることがあります。小論文はその最たる例です。

親御さんの中にもお家で小論文や感想文、紀行文を書く手伝いをされたことのある方は多いのではないかと思います。

この記事では小論文を書くことについて、最近感じていることを書いていきます。

「小論文の書き方」の手前でつまづく

小論文の書き方はどうすれば上達するかと聞かれることがあります。これは、とても難しい問題です。

どんな小論文を書くときでも通用する、書く力というのはあるのでしょうか。あるとすればそれはどのようなものでしょうか。

このテーマについては様々な参考書などでも「小論文の書き方」が紹介されていますし、自分でもなんども「こうすればいい」という解決法を提出しようと頑張ってきましたが、なかなか心から納得できるものができず、草稿を書いては消してきました。どうしてか。

「小論文の書き方」にはふつう、テーマを深掘りしたり絞ったり、構成を考えたり、推敲したりする方法などが書いてあります。これらはとても重要なことです。

ですが、実際に小論文を指導するとなったときにつまづくのは、その手前であることがしばしばありす。それは、そもそもそのテーマについて興味がない、ほとんど知らない、意見がないというような状況です。

これでは、小論文とは意見のない問題について意見を言う練習なのだということになってしまいます。(たしかにそういう面は大いにあると思いますが。)

何にでも意見を持っている人

小論文の技術を上達させるために、しばしば「普段から色んなものに関心を持って、広く意見を持つようにしましょう」という提言がなされます。確かに色々なものに興味があって、色々なものを面白いと思えるのは、いいことに違いありません。

普段から色んなものに関心を持って、広く意見を持っている人は、小論文を書く技術を持っているだけではなく、何を言われても即座に反論できたり、持論を展開できる、賢い人というイメージがあります。自分もそんな人間には憧れる気持ちがあります。

では、「普段から色んなものに関心を持って、広く意見を持つようにしましょう」というアドバイスがどれほど有効なのでしょうか。

これが、あまり有効に思えないんですね。そして、ときに多くのものに興味を持てていない=ダメという誤解を招いてしまっていうるように思います。

ところで、そもそもどうやったら興味を持つことができるのでしょうか。

何にでも興味や意見を持っている人というのを考えてみましょう。その人はなぜそんなにいろんなことに意見を持っているのでしょうか。わかりません。

あなたは何にでも意見を持っているでしょうか。たぶんそうではないでしょう。

ジル・ドゥルーズというフランスの哲学者が、「何にでも意見を持っている人はすごいと思う。自分はそんなことはできない」と言っています。(単に感心しているのではなく彼は皮肉を言っています)

もちろん、私は意見を全く持たなくていいと言いたいのではありません。関心を拡げる機会を持たなくていいと言っているのでもありません。むしろその逆です。

大学受験をするのなら、特定の分野の特定のテーマに関しては何か言いたいことがなければ、入学してからとても辛いことになるでしょう。それが今の段階で決まってる必要はありませんが、入学してからでも何かを見つけないと大変なことになります。

反対するのは意見の表明

あくまで「何にでも興味を持っていろんなことに目を向けようというアドバイスをすること」に少し反対したいというだけです(おや、反対したいというのは少し意見を持っているように思えませんでしょうか)。

この記事を書いている私のように、書いたり、読んだり、喋ったりているうちに何かに反対したいという気持ちがわかっていくこともあります。人間は意外と、自分が何をしたいのか正確にわかっていないものです。

何かに反対するとき、あなたはもしかすると、なんとなく世間の風潮に従うのが嫌だ、と思っているのかもしれません。それはとても大切なことで、しかし何に反論したいのか、何が気に入らないのか、考えてみてはいかがでしょうか。

何かに対して物申している声に同調するのでは、本当の意見は育ちません。あなたの意見は他の誰とも違うのかもしれません。それを探すのが、小論文の練習なのだと言えるでしょう。

気になるものには「近づいてみる」

何かに積極的に関心を持つのは、難しいことです。なぜなら、関心とは意志で動かせるものではないからです。

好きでないものを無理矢理好きになることができないように、興味のないものに対して意志の力で興味を持つことはできません。

20世紀ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーという人がそのことを論じているようです。

哲学者・研究者の國分功一郎さんは、興味や関心は意志の力で持つことができない、というハイデガーの論を紹介しながら、しかし何かに「近づいてみること」ならできる、と言っています。

「広く関心をもって」などと人は言う。
しかし
関心をもつなどというのは滅多にないことです。


ハイデッガーがこんなことを言っています。
関心interesseとは、「間inter」に「有るesse」ことだ、と。

つまり、関心とは〝持つ〟ものではない。
所有の対象ではない。
それは存在esse/beingの問題であるのです。

〝何かの間に有る〟という、その存在の状態が
ある時に、何らかの理由で勃発する、
そういうことなのです。

したがって、
それは意志の問題ではない。
やろうと思ってできることではない。

でも、
そんないつ起こるか分からないものは待ってなんていられない。
だったら、意志でなんとかなることをとりあえず掲げてみてはどうだろう?

そこで思いついた言葉が
「近づいてみる」
だったんです。

近づいてみて、おもしろければラッキーだし、
ダメならまた別のところに行けばいい。
入るのは難しいけど、近づくだけならけっこうできますよね。

(※一部、改行を削除しています。)

関心と感動——紀伊国屋書店「じんぶんや」での選書フェア

引用は、國分さんが、ご自身の発表された著作に関連して選書フェアを行ったときに書かれたものです。

やはり何かに関心を持って(気になって)、近づいてみようとするとき、本というのはいいきっかけになると思います。本屋さんにいって、気になったものをパラパラっとめくってみればいいのです。

みなさんも、「気になるな」とか「興味を持ってみたい」と思うものがあったら、まずはそれに「近づいて」みてはどうでしょうか?

この記事を書いた人

片岡 正義

主に国語・英語を担当。言語を理解する上での「からだ」と「あたま」の双方から楽しみを感じられるような授業をしたいと思っている。

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